特定非営利活動法人 NPO法人 SIDS家族の会

SIDS家族の会は、SIDSやその他の病気、または死産や流産で赤ちゃんを亡くした両親を精神的な面から援助するためのボランティアグループです。
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専門職の人たちへの提言

提言

SIDS家族の会は、

  1. 赤ちゃんを亡くした家族同士の精神的援助
  2. SIDSに関する知識の普及
  3. SIDSに関する研究活動への協力

を目的として、ミーティングなどさまざまな活動をしています。

私たちはその活動を通じ多くの遺族と接する過程で、遺族と接触する機会が多い専門職の人たちと遺族の間には、意外に大きな溝があることに気づきました。「赤ちゃんの死」の重さ・捉え方が違うのです。

そのことは会員やほかの遺族との対話の中でも感じていましたが、当会が2003年から2004年にかけて遺族会員と医療・保育関係者に対しておこなったアンケート(注1)では、さらに如実に示されています。

赤ちゃんを亡くしたばかりの家族には、どんな言葉をかければよいのでしょうか?

どんな言葉が遺族を傷つけるのでしょうか?

張ったオッパイをもう吸ってもらえないお母さんは、どんなことをしてほしいのでしょう?

亡くなった赤ちゃんを、お母さんに抱かせていいのでしょうか?

その前に赤ちゃんの遺体は見せない方がよいのでしょうか?

家族と赤ちゃんだけにして、大丈夫でしょうか?

専門職の人たちへの提言

…じつは、これは全部私たちが専門職の方たちから受けた質問です。このページの見出しに提言という言葉を使いましたが、この言葉はこのページを開いてくださる方にとっては、大変ご無礼なものかもしれません。

皆様はおそらく「赤ちゃんを亡くした家族を何とか立ち直らせよう」「少しでも遺族の心の傷を癒したい」という気持ちでこのページを開いてくださいました。どうぞ無礼をお許しください。

私たちは遺族にかかわる専門家の人たちに対し、私たちの会の3つの目的のほかに、いくつかのことを発信していく必要性を感じています。そうすることで、先に述べました「不幸な溝」を少しでも埋められると思っています。

私たちの会の会員の多くは、心の準備をする暇もないまま、それどころか人によってはそれまでの人生で一番幸せを感じているときに、赤ちゃんを亡くしています。当会の会員だけでなく遺族の多くは、身内や友人だけでなく、彼らにかかわることの多い専門職の人に、無意識のうちに慰めの言葉を求めることが多いようです。

このことは遺族からも、専門職である医師や看護師・助産師・保育師・救命救急士の方など、双方から何度もお聞きしたことがあります。

そんな遺族にかけられる言葉のほとんどは、善意から発しています。ところがその中のいくつかの言葉は、遺族を傷付けます。例えば「早く忘れなさい」「まだ若いんだから、早く次の子どもを作れば元気になるわよ」「情が移る前でよかったじゃない」「あなただけが辛いんじゃないのよ」などです。

ではどんな言動はよくて、どんな言動がいけないのか?

ここで正解が書ければよいのですが、私たちは正しい答えを知りません。ご理解いただきたいことなのですが、赤ちゃんを亡くしたばかりの家族はわがままです。ですから同じ言葉をかけられて、救われる人もいれば傷つく人もいます。また同じ人でも昨日と今日では、別人になっていることもあります。共通の正解はないのです。

あえて「正解に近いものを」と言われれば、それは「真摯な心のこもった言動」です。このホームページを見ておられる皆様が、今の職業を選ばれた理由の一つに、きっと「命」に対するいとおしさがあるでしょう。命に真摯に向き合う気持ちを込めた言動は、きっと遺族を救ってくれるはずです。

例えば、結婚の経験も出産の経験もない若い看護師さんが、打ちしおれたお母さんにかけるべき言葉を見つけられずに、ただ黙って涙を浮かべ、温かい紅茶を出してくださいました。…この紅茶の温かさは、お母さんの心を優しくやさしく温めてくれました。

あるお母さんは自身のお母さんからこう言われました「私は子供を亡くしたことがないから、あんたの今の気持はわからない。私に何かしてほしいことがあったら言ってね」 。

このホームページを通じ、なかなかお伝えしにくい「正解に近いもの」を、皆さまに少しでもお伝えできれば幸いです。

  • 近道はありません
  • 本人の力で這いあがらなければいけない時もあります
  • 人それぞれに回復の道程は違います
  • それは同じ家族であっても、たとえ夫婦であっても同じです
  • ・ もし「元気にならなくてもいい」「立ち直らなくてもいい」というお父さんやお母さんがいたら、こう言ってあげてください。
    「○○ちゃんは、きっとお父さんやお母さんの笑顔が大好きなはずですよ。たまに泣くのはいいけれど、泣くところばかりじゃなくて、笑顔も見せてあげてください」

このホームページは、あまり上手にできたものではないかもしれませんが、一人でも多くの人が海から這い上がることができるように祈って作りました。

注1.事務所に注文すれば、実費で送らせていただきます。

発信

当会が発足した1992年から数年間、遺族の自助組織は、ほとんど存在していませんでした。

ほんの少し前のことなのに、その当時は「遺族の心のケア」「グリーフケア」という言葉を聞いたことがある人もほとんどいなかったと思います。

当会の会員やビフレンダーが、保育所や保健所・産科や小児科の病院などにパンフレットを持っていっても、それを受け取ってもらうことすら出来ないことは、決して珍しいことではありませんでした。

ここ数年は違います。乳幼児医療の最前線の学会、助産・看護の学会などにお呼びいただき、そこで私たちの経験をお話しさせていただく機会が増えてまいりました。ありがたいことです。「私たちの経験」というのは私たち個人の経験だけでなく、私たちが多くの遺族と接して得た「遺族の経た道筋」のことです。

また、医学・看護学などの講師として呼んでいただくこともあります。これからの医学・看護・保育などを担う学生さんの真剣なまなざしは、それだけで私たちを力づけてくれます。

監察医の先生に、解剖についての講演をしていただいたことがあります。亡くした赤ちゃんの解剖については、遺族はいろんな思いを抱えています。「そんな思いが全くわかっていない医療者がいる」と遺族が訴えると、「患者さんや遺族の方の思いは、じつはなかなか医療者側にはわからないものです。どうぞこんな機会におっしゃってください」というような答えがありました。私たちと医療者側双方が「わかりあっている」あるいは「あたりまえ」と思っていることが、じつは誤解だったり、あたりまえでなかったりするようです。

私たちのほうからの発信の必要性があると思います。

先の項で述べたように、遺族は赤ちゃんとお別れした後にたどる道々で、新たな傷を負うことがあります。

赤ちゃんが亡くなります。不適切な言い方かもしれませんが、赤ちゃんとの別れという不幸を「一次災害」と表現すると、遺族が後に被る新たな不幸は、努力によって避けうる「二次災害」です。

私たちには遺族の声あるいは亡くなった赤ちゃんの声を、医療者側の方々にお伝えする義務があると思います。それは決して責任を追及するためではありません。二次災害を避けるための大事なヒントが、そこにあると思うからです。不要で不幸な溝を埋めるための、有効な手段です。赤ちゃんの死について、遺族と医療者が思いを通じあうことは、双方に安心を生むことでしょう。そうして出来上がった状況は、新しく赤ちゃんの誕生を望む家族にとり、大変好ましいものに違いありません。

教師や保育師の養成課程の方への講義も、同じような意味合いがあります。ある保育師さんからこのような質問がありました。

「SIDSは発生の予見も発生後の蘇生もできないのであれば、現場では怖くて保育できません」。

マスコミの報道は、時にセンセーショナルすぎて、不安をあおりすぎます。私たちはいざという時の対応の具体的な予行演習を、お勧めしています。当会ではそんな訓練の指針になるよう、職業別ガイドライン(注2)を発行しています。災害に出会ってみればよく分かることですが、例えば火事や地震発生時の対応訓練を何度もやっておくことが、平時の生活に安心を与えることはよく知られています。それは生きている赤ちゃんにとっても、幸福なことだと思います。

私たちはただの遺族であり、プロの講師でも教育家でもありませんから、上手にお話をすることはできませんが、必要であればどうぞ私たちに声をかけてください。

注2.事務所に注文すれば、実費で送らせていただきます。

グリーフケアのテキスト

遺族の感情

当会では、遺族の観点からみた遺族のグリーフケアのテキストを制作中です。私たちは従来の医学・看護・保育などの教科書の中には、「死」や「遺族」に関する項目が少なすぎるのではないかと思っています。また遺族の思うグリーフケアとはかなりずれたものが、プロフェッショナルの常識として教えられているのかもしれないと思います。

それぞれの専門分野では、科学の発達により学ぶことがどんどん増えています。その中で「死」の占める割合が、相対的に減ることがあってはならないと思います。

先に述べました通り、当会発足時と現在とでは、グリーフについての考えは大きく変わっています。私たちが遺族の出会った様々な出来事聞いていますと、現在は「生」からも「死」からも、遠くにいるような錯覚で暮らす人が多いのではないかと思いがします。

当会の会員にしても、赤ちゃんを失って初めて「死」が現実に存在することを感じた人が多いようです。やがて彼らは「生」の儚いこと、尊いことを感じるようになります。「死」を学ぶことは、決して「生」をおろそかにすることではなく、反対に大事に思うことにつながると思います。

ですから「生」にかかわる仕事に就く人は、むしろ「死」を学ぶ機会を増やすべきではないでしょうか。

ちなみにこの文章の作者は昭和29年生まれですが、母親の実家で産婆さん(注3)に産湯を取ってもらいました。当時それは珍しいことではありませんでした。ただ流産・死産は今よりもずっと多かったし、乳幼児の死亡率も高かったせいで、小学校の同級生の何人かは兄弟を亡くした経験を持っていました。

そんな子のひとりが理科の実験の際、ぬるま湯を作るのに「お湯を先に入れるのよ。水を先に入れるのは、死んだ赤ちゃんが使う産湯をつくるときだけなのよ」と教えてくれました。そして死んだ赤ちゃんのことや、お母さんは長い間泣いていて病気になったことなどを話してくれました。するとだれかが、家で老衰で亡くなったおじいちゃんの白い着物が左前だったことや、頭に三角の布がのっていたこと話をしました。給食のときに「渡し箸はだめだよ。お骨じゃないんだから」と叱る子もいました。そんなことをみな、結構かしこまって聞いたものです。当時の子供は悪がきでも、子供心に「生」と「死」には尊厳を感じていたように思います。

もっと上の世代は、守るべき硬いしきたりがありました。それは少しうるさいものだったかもしれませんが、その地の歴史に根付いたものであったうちは、遺族を取り巻く小さな社会としきたりが「死」の悲しみを覆ってくれたのかもしれません。昔のどこかまでは、しきたりにはそれなりの合理性があったはずです。

現代はどうでしょう?

テキストでは、とてもそんなところまでは書けません。ただ少しわがままな遺族の声を紹介することで、「生」と「死」の最前線で活躍される皆さんの活動のヒントが見つかれば幸いです。完成しましたら、このホームページで紹介させていただきます。

注3.当時はこの呼称が一般的でした。